「弱い主体」の自由主義へ――大川正彦『思考のフロンティア――正義』から

 7月8日付けの記事で取り上げたのは、「社会関係資本」――人と人のつながり、絆の強さ――の格差を巡る問題でした。リベラルな価値観が浸透した現代において、社会に馴染めない人たち、社会からの孤立・孤独を感じる人たちを社会に包摂することの困難について、簡単に書いてみたつもりでした。
 先日も整理した通り、経済的な格差については、所得税累進課税生活保護の制度に象徴されるように、20世紀以降、国家による再分配がごく当たり前のように行われてきました(少なくとも先進国においては)。いわゆる「福祉国家」の仕組みが浸透してきたわけです。この経済的な再分配を執り行う福祉国家体制そのものも、グローバリゼーションの進展による移民の増加や少子高齢化に伴い、その枠組みが揺らいできている…というのは昨今盛んに取り上げられるテーマですが、先日から焦点を当ててきたのは、お金や不動産といった形をとる有形財の格差ではなく、無形財たる社会関係資本の格差です。

 この社会関係資本の格差問題について、解決の方途はないのか。その手掛かりを得るべく、今回は大川正彦『正義』*1を取り上げてみたいと思います。

  経済的な格差とは異なり、国家が私人間の人間関係に手を突っ込んで配置転換するのが困難なのはなぜか。それは、近代以降の国家が、自由主義の要諦のもとに成り立っているからです。人々が土地や身分に縛られていた中世ヨーロッパの封建制や江戸時代とは異なり、各人は自律した主体として私有財産を持ち、自由に居住地や職業を選ぶことができます。
 ロックやミル、アダム・スミスといった政治哲学者たちによって芽吹いたこの「古典的」自由主義は、特にロックの議論に顕著ですが、第一義的には所有権(property)を重視します。つまり、自身の身体・生命をも含めた私有財産を侵害されない権利です。しかしそれと同時に見逃してはならないのが、この古典的自由主義が想定している個人像、主体像です。大川は、アメリカの法哲学者シュクラーを引きながら、この初期の自由主義希望の党派>自由主義と呼称し、そこには2種類の自由主義自然権自由主義、人格的発展の自由主義)が含まれていると整理します。重要なのは、いずれの立場も、「自律した」「強い」主体像を想定しているという点です。

自然権自由主義(Liberalism of Natural Rights)は、それぞれが自らや他者たちのために立ち上がる能力と意欲をもった、政治的に屈強な市民から構成される正しい社会を思い描く。*2

「精神自身がくびきに屈している」状態を脱し、「自己の本性にしたが」い、自らの「人間的諸能力」をあますところなく発展させ、「私のうちにある最善にして最高のものを十分に活動させそれが成長し栄えるのを可能にする」ような、自由で開いた社会をつくりあげていくこと。ここに「人格的発展の自由主義(Liberalism of Personal Development)」のねらいがある。*3

神が各人に授けた「自然権」たる自らの財産を、そして他人の財産を、それぞれ守りぬくこと。非合理的な伝統や慣習を捨て去り、理性をもって自己の人格を陶冶していくこと。<希望の党派>自由主義が目指すところの社会そして個人の在り方はここにあります。

 なんとまあ理想論を、と思われるでしょうが、相変わらず現代のリベラリズムにおいても、こういった思想は根強く引き継がれているように思われます。立憲民主党社会民主党の支持層に代表される「リベラル」界隈が好んで使う「市民運動」という用語、ここで想定されている「市民」の理念型とは、まさしく教養を備え、草の根的な政治活動に積極的にコミットしていく自律した主体に他なりません*4。
 おそらく富の再配分を強く要求し、マイノリティの地位向上にも声を上げてきたリベラルな人たちも、この点には無自覚なのではないのではないでしょうか。むしろ相変わらず一人一人に、「自律した市民」たることを求めているのではないでしょうか。責任ある市民ならば、一定の知識を備えているべきだ。政治に無関心ではいけない、必ず投票に行き政治に参加すべきだ。
 しかし、誰しもがそうした屈強な主体でいられるのでしょうか?社会から切り離された「無敵の人」が?

 大川が参照するシュクラーは、<希望の党派>に対置する形で<恐怖の自由主義>を提唱します。この立場は、近代に芽生えた自由主義が、もともと前近代の宗教紛争が生んだ「残酷な行為」や「恐怖」から逃れるという観点から浮上してきたものであることに注目し、個人に保証されるべき自由を、「弱き者と強き者のあいだの違いがもたらす無防備な者への脅迫から免れる自由」とみなします。そしてその前提にあるのは、ひとが誰しも誤りうる、誤ってひとを傷つけうる、いとも簡単に傷つけられてしまう、という認識です。つまり、弱い主体像です。
 ひとは皆誤りうる存在、簡単に傷つく弱い存在、そういう主体像に根ざした自由主義は、社会から孤立した人たち、まさしく、傷つけられた人たちに対してどう向き合うことを要求するでしょうか*5。大川は、不正義を表出する相手がそこに居ることを注視した上で、その人の言葉を聴き届け、翻訳する仕事がなければならない、といいます。それは、ホワイトのいう「不必要な受難や不正義といった生に付加された重荷を負っているすべてのひとの対する繊細な同情と調和する」という方向性を単に踏襲するようにも見えますが、大川はなお問いを重ねます。

「すべてのひとに対する繊細な同情」とは、不正義感覚の異なりを携えながら、やりとりを切り抜けていく上でなんとか折り合っていくプロセスを、まるごと先取りし、そのプロセスが首尾よく到達した地点から出発点を規定しようとしてはいないか。…そのことによって、「不必要な受難や不正義といった生に付加された重荷を負っている」ひとを、愛されるべき対象として、愛される以外に何もできない…そこに居ることさえ忘れられた抽象的な「他者」へと切り刻んで切り詰めてしまっていないか。自らの悦に入った「他者性への責任=応答可能性」を成就するための小道具にしてしまってはいないか。…*6

この記事を書く僕自身の欺瞞をまで暴かんとするこの指摘。「ではどうすればいいのか?」という問いに対する明確な答えは、残念ながら僕が読む限りでは得られなかったのですが、社会に孤立させられた主体に対して、不正義という重荷を背負った主体に対して、どう向き合っていけばいいのか、本書は極めて有用な視座を提供してくれるように思います。

*1 大川正彦『思考のフロンティア―正義』岩波書店、1999年。BOOKOFFでたまたま見かけて読んでみたら、前回の記事ときわめて親和性が高かったのでまた記事を書くことにした。こういう出会いがあるから本屋はいい。

*2 前掲書、18頁。

*3 前掲書、19-20頁。

*4 あくまでも「理念型」(ウェーバー)。「知識人」の地位低下が著しい2010年代の昨今ではあまりピンと来ないかもしれないですね。

*5 「残酷さからの回避」を要請する<恐怖の自由主義>は一見、「消極的自由」(バーリン)と相違のないもののように見えるし、そうだとすれば、そもそもこのような要求は出てこないだろう。しかしシュクラーによれば、<恐怖の自由主義>は「消極的自由」とは異なる。<恐怖の自由主義>はあくまでも残酷さという<共通悪>からの回避を要請するものであるが、大川は<共通悪>の回避の裏返しとして、シュクラーが<共通善>的なものを想定していると読む。そうだとすれば、<恐怖の自由主義>はむしろ「積極的自由」に属するといってもいいだろう。

*6 前掲書、59頁。