社会関係資本をめぐる格差の問題

 「現代社会や都市では人と人のつながりが希薄。もっとコミュニティや絆を大切にしていかなきゃ!」
 ある種の社会問題が与えられたときに、お決まりのように登場するこの解決策。この解決策に出てくる「人と人のつながり」や「絆」をアカデミックに言い換えた概念が「社会関係資本」(social capital)です*1。社会関係資本をめぐる先行研究では、社会関係資本の高さ――すなわち人と人、人と組織のネットワーク(絆)の強さは、経済活動や市民の健康、教育などにメリットをもたらすとされています*2。

 この「人と人との絆」という観点は、場面によっては有用といえます。例えば、貧困問題への取り組みで有名な湯浅誠は、経済的困窮に陥っている人々は、同時に「人間関係の貧困」に陥っていることが多く、そのことが経済的貧困からの脱出をも困難にしているといいます*3。だからこそ湯浅は、船をつなぎとめる状態を意味する「もやい」という言葉をそのまま自らが代表を務めるNPOに冠し「居場所づくり」の活動に尽力しているわけです。経済的格差と社会関係資本の問題が密接に関連していることは論を待ちません。

 ここ最近、無差別に人を殺めんとする事件が立て続けに起こりました。一つが、男が東海道新幹線の中で刃物を振り回し、一人が犠牲となった事件。もう一つが、富山で男が交番の警察官を刺して拳銃を奪い、発砲した事件。彼らはネット上で「無敵の人」と呼ばれています。失うものは何もない、それほどまでに追い詰められて凶行に走るから「無敵」。きっと彼らは「育ちすぎたかまってちゃん」なのです。赤ん坊に迷惑や責任という観念はない。ただ欲を満たすため、かまってほしいから泣きわめく。そのまま大きくなったのが彼らなのでしょう。

 しかし、彼らに倫理や責任を説くことに果たして意味があるのでしょうか。彼らはなぜ「無敵」になったのか、そこが肝要です。
 この2つの事件の犯人に共通しているのは「孤独感」「社会への馴染めなさ」が事件の引き金になっているように見えることです。新幹線の事件の犯人の「俺なんて価値のない人間だ」との発言、まるで哲学や文芸に救いを求めるかのような蔵書のラインナップ、富山の事件の犯人に学生時代のクラスメイトから向けられた「友達がいない」「何を考えているか分からない」とのコメント…。彼らには明らかに社会関係資本が不足しています。これらの犯罪は、社会の病理の表出ともいっていいと思います。そのことを直視せず、闇雲に「道徳」「倫理」を説き、彼らを「異常者」として切り捨てたところで、第三、第四の無差別殺傷事件が起きるだけなのではないかと思います。もし仮に自分が、家庭環境から生まれ持ったパーソナリティまで彼らと同じ境遇にあったとしたら、それでも同じことをしないと言い切れるだろうか?今持っているような「常識的」な倫理、責任感を育むことができるだろうか?
 きっとここでも、社会関係資本という概念が鍵になるのだと思います。

 しかし、ここで注意を向けたいのは、次の点です。個人単位で見たとき*4、社会関係資本にもまた「格差」が生じているのではないか。つまり、社会関係資本(social capital)という概念を仮定するなら、社会関係資本主義(social capitalism)というものがあり得ることもまた想定する必要があるのではないか、ということです。

 周知のとおり、いわゆる資本主義、つまり経済学的な意味での資本主義については、福祉国家という形で歴史的に修正が課されてきました。いまや原理的な市場主義を唱える者は皆無です。そこには少なからず国家による市場介入と所得再配分が予定されています。
 ところが、人間関係については、今も昔も「剥き出しの市場原理」が作用しているように見えます。分野によっては、リベラルな価値観の浸透がこの傾向をさらに強めた面もあるのかもしれません。例えば、お見合い結婚に象徴される封建的な結婚制度は、リベラルな恋愛至上主義に完全に追放され、モテ/非モテ間格差が顕著になった、という議論は興味深いものです。いずれにせよ、これは常識からすれば当たり前のことです。我々は給与から所得税が天引きされ、稼ぎの多寡によって再配分されることは容認していますが、国家権力によって「人間関係が再配分」されることなどあり得ません。好きな人は好き、嫌いな人は嫌い。
 この当たり前から、人気者とそうでない者、それからはみ出し者が生まれます。「友達がいない奴」を。

 つまり、「社会関係資本主義」は徹底した市場原理主義の論理で動いており、しかもそれは本質的にリベラルな価値観と極めて親和性の高いものである、といえるように思われます。この問題は極めて難題です。ある施策によって地域コミュニティが「再興」して、とある社会の社会関係資本がマクロレベルで改善されたとしても、そこにはきっと排除された「社会不適合者」がいるはずなのです。
 そうだとすれば、彼らを包摂する道はどこにあるのでしょうか。僕だってここでは「彼らを救え」と書き殴っているけど、身近にいたら「避けて」いない自信など微塵もない…

*1 その定義はかなり曖昧なのだが、ここではその曖昧な定義に乗じて「人と人、人と組織間の信頼、絆、ネットワーク」を表す言葉として借用させてもらっているだけであって、この文章に社会関係資本概念そのものを批判するねらいはない。

*2 稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル入門』(中公新書、2011年)などが詳しい。

*3 湯浅誠『反貧困』(岩波新書、2008年)。ブックオフにいくらでも転がっているので読むべし。

*4 「社会関係資本」概念そのものは、この分野の第一人者である社会学者パットナムの議論をみても、あくまでも特定の社会を記述する変数として用いられることが多いように思われる。したがって、「個人単位で見たとき」という仮定も厳密には怪しいのだが、いずれにせよ*1で述べた通りである。