自己統治―権力行使についての覚え書き

 強くなりたい。そう願うとき、もしかしたら暗に目標にあるのは、近代のリベラル・デモクラシーが要求するような、「自律した人間」像かもしれない。すなわち、「自己統治」が機能した人間像である。

 ところが、そのような強靭な主体を目指すことは、同時に他者に対する尊重を損なう事態を伴いかねないようにも思われる。それは実感としてのみならず、次に引くように、思想家によっても政治哲学の文脈において言及されるところである。

フーコーによれば)主体の倫理は「自己の統治」であり、「私」にとっては他者を統治する技法の開発場所である。主体の倫理はいつでも「統治性」に、したがって権力に転用可能である。[…]主体の倫理は、あるいは主体の倫理こそが、権力の母胎である。
市田良彦『革命論』189頁)

プラトンの支配は、その正統性を自己の支配に求めており、したがって、その指導原理を私と私自身の間に樹立された関係から引き出している[…]そしてこの指導原理が、同時に、他人にたいする権力をも正当化し、限定づけているのである。[…]つまり、人は自分自身を支配する程度に他人を支配するのである。(H.アーレント『人間の条件』372-373頁)

 自己への支配は、他者への支配と同義たりうる。市井の言葉で理解するならば、「自分に厳しい人間は他人にも厳しい」というテーゼがこの事態を率直に表しているだろうか。もしくはこの事態をもっと大胆に敷衍してしまえば、「俺はこう生きたい」という「自己統治」に端を発する行動が、時に他者の自立と尊厳を踏みにじる「自己中」へと転化してしまう事態として捉えることができるかもしれない。

 解決策はあるのだろうか。それは、アーレントの議論に即して言えば、(彼女は「活動action」のもたらす不可逆性と不可予言性を救済する材料としてこれを持ち出しているが)「他人の存在に基礎」を置いて成立し得る「約束」と「許し」であるのかもしれない。
 そうか、許してもらうしかないのか――。