名古屋の見どころ再発見! その②~覚王山の「別荘」探訪

見どころ再発見企画、第二弾でございます。

今回訪ねたのは、名古屋駅から地下鉄東山線で10分少々、名古屋市内の住みたい街ランキングで第1位を飾ったこともあるという高級住宅地「王山(かくおうざん)」界隈です。

なるほど、名古屋で住むならどこ?と言われて「覚王山」、これはアリかもしれない。都心の喧噪から一歩引いた所にある丘陵地が、リッチな方々に人気だというのは首都圏でも関西でも一緒だよね。お金持ちは低い土地には住まない。

でも、名古屋で観光するならどこ?と問われたら、まず覚王山なんて出てこない。
一応目星はつけてるとはいえ、大丈夫なのか?果たして記事が成立するのかっ…!?と一抹の不安を抱きつつ駅に降り立つ。

 

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覚王山駅から「日泰寺(にったいじ)」に続く参道。

カクオウザンって響き、格好いいよね。
まさにこの地名の由来が、日泰寺にあるのです。そう、このお寺の正式名称は「覚王山日泰寺」。この地がまだ森林と田畑で覆われていた1904年に創建されて、その門前町として一帯が発展してきた訳ですから、日泰寺抜きに覚王山は語れないということ。

そんなことで、歴史の重みをまだ微かに残す街並みを抜けて歩いていきます。

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名古屋の見どころ再発見! その①~四間道・円頓寺 

「え、名古屋?なんも見るとこ無いよー!w」

日本列島に数多ひしめく観光地をさしおいて、わざわざ我が故郷を訪れたいという有難きお言葉に、今日もナゴヤ人はそう答える。そして、せいぜいひつまぶしや味噌カツでも食っとけと、申し訳程度に付言する。

しかし、愛すべき故郷を自虐する彼/彼女は、その表面上のやり取りとは裏腹に、内心ではきっと忸怩たる思いに苛まれているに違いないのだ。
なにせ、ナゴヤ人はこの何もない都市名古屋が大好きなのだ。中高生のたまり場はスガキヤが併設されたイオンのフードコートであり、ドラゴンズを応援しない者はクラスのはみだし者であり、名古屋大学からトヨタに就職するのがエリートなのだ。

だから、我々は根っからのナゴヤ人であるというプライドに賭けて、こう堂々と胸を張るべきなのだ。
名古屋に何もない訳がない!と。

 

というわけで、生まれは大阪、お雑煮といえば京野菜と丸餅が入った白味噌、1歳にして名古屋に越してくるもののティーン終盤にして関西の大学に逃亡した中途半端なナゴヤ人である著者が、諸事情により再び名古屋に戻ってきたこのわずかばかりの時間を利用して、あまり知られていないであろう名古屋の見どころを掘りだして紹介する!という企画を始めてみたいと思います。

 

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7月26日昼過ぎ、今年に入り超高層ビルが2本ほど完成して、ノリにノッてる名古屋駅前にやって参りました。
ノリにノるのはいいんですが、これ見てからJRで大阪駅に着くとげんなりするね。名古屋、大したことないじゃん、って。

 

名古屋の見どころを再発見する企画、最初に紹介するのは、そんな名古屋駅から徒歩で15分ほどの距離にある、「四間道・円頓寺」エリアです。
歩くのがイヤだという人は、地下鉄桜通線で一駅、「国際センター」駅で降りればすぐです。

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おい!!和を乱すんじゃねえ!!

Twitterを見てて思ったこと。
仮説の域を出ないけど、

①声が大きいのに、自分と違う考えをまくしたてる(法)人(例:マスコミ、政治に物言う芸能人)
②マイノリティたる属性を利用して、声を上げているように見える人(例:障害者)

に対して過剰に反感もちすぎじゃないかな、ニッポンの人たちよ。
彼らに対して、理屈じゃなくて、なんだか感情的にイラっとくる、そんな人が多いような気がするのだ。

和をもって尊しとなす、という暗黙の共通ルールに相対する存在ゆえに気に食わないのかな、とか思ったり。

東京・路地の風景3選

"だ・である調で綴られた文章=「きちんとした文章」"のはずが、一歩足を踏み間違えるだけで「素人がイキった文章」に陥落しかねないということが、過去の投稿をみていると分かりますね。

今回はです・ます調にしておきますね!

 

6月27・28日にかけて、所用で東京に行ってきました。

谷根千清澄白河といった、いわゆる下町エリアをぶらぶら散歩していたら、偶然にも良さげな路地の写真が集まったので、良さげに編集(※Windows10付属のビューアソフトで数クリックしただけ)したのを並べて載せてみる。

 

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その1。谷中の築地塀

区の施設の脇の階段を上っていくと、忽然と現れました。さして関心がなければ素通りしてしまいそうだけど、絵になります。

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黒光りするあいつを玄関から追い出した話

出かけようと思ったら、玄関でゴキブリがジタバタしていた。
腹を向けて、ひっくり返った状態で、ジタバタしていた。

ゴキブリ=敵。
ゴキブリ=殲滅すべしもの。
当然の命題である。
洗面所や台所で黒光りするそやつを見かけるや否や、反射的に殺虫剤をもって始末にかかる。それが平均的現代人というものだろう。

その当然の命題に従い、僕は玄関のゴキブリを処理することにした。
ただまあ、玄関なので、殺虫剤を使うこともあるまい。
ジタバタするそやつをひと蹴り、ゴキブリを引戸のの外に追いやった。
これにて無事、作戦は完了した。
いまいましい敵を生活圏内から滅失させることに成功したのである。

さて、玄関の外、すなわち屋外に出たゴキブリは、体制を立て直してとことこ歩き出した。
そやつは引戸に沿って歩く。弱っているのか、えらく遅い。いつもの俊足ぶりが嘘のようだ。
ゴキブリはいつまで経っても視界の中にいる。
そのまま物陰に入って動かなくなったが、姿は相変わらず見えているのだ。

はて、これは放置していいものだろうか。

ここで僕は、一種の不思議の感に打たれたのであった。
今まで見かけてきたゴキブリは、すべて命を奪われる宿命にあった。
ゴキブリ=敵。
ゴキブリ=殺さなければならない。
それが自らの身体に埋め込まれた習慣であり公理であった。
だが、どうだろう。今や、僕の身体はそういう風には全く機能しなかったのであった。ゴキブリを始末するという行為が、今この場では、不自然だったのだ。
「あれ、なんで殺す必要があるんだろう…?」

いつもは屋内で、今は屋外だから。
人間は「家」という私的空間を虫にさえ侵されるのをよしとしないから。
ただ単にそれだけのことといえばそれだけのことなのである。

でも、生と死という究極の二項対立が、壁の内側か外側かによって、いや、正確に言えば、その点に拘る人間の精神によって、こんなにもいとも簡単に仕分けられてしまうとは。
そんなところに面白さを感じた次第。